written by Moonstone
カランカラン。
ドアに付けられたベルが軽やかな音を立てて、新たな来客を告げる。
大通りからは少し外れたところにあるバー。敢えて若者を意識しない、落着いた装飾と柔らかい照明。
忙しない日常から離れてひとときの安らぎを求める、通好みの大人達に密かな人気を集めている。
カウンターに一人座っている男が、無言で少しずつブランデーを口に運ぶ。
壁際から3つ分離れたその席は、半ば男の指定席となっている。
男はベルの音に誘われてドアの方をちらりと見て、再びグラスに視線を戻す。
スーツを着こなした白髪の男は、カウンターの男の横に腰を下ろす。
「ウイスキーを頼む。」
白髪の男は先に出されたつまみのピーナッツを幾つか口に運ぶ。
先に居た男はそれに構わず、マイペースでグラスを傾ける。
先にカウンターに居た男の名は碇ゲンドウ。かつて特務機関Nervの司令だった男。
後から来た白髪の男の名は冬月コウゾウ。ゲンドウの後を受けてNervの司令となった男。
二人が酒の席を共にするのは今でこそ珍しくはないが、ゲンドウがNervに居た頃は一度もなかった。
ゲンドウが殆ど口を開かないことはしかし、あの頃と何ら変わってはいない。
「今日は早いな。」
珍しくゲンドウが先に口を開く。
「ああ。最近はゆったりしたものだよ。あの頃が嘘のようにな。」
コウゾウは出された茶色の液体を口に注ぎ込む。
ゲンドウはグラスを軽く振る。氷がグラスとぶつかり、透き通った音を立てる。
残り僅かとなったブランデーが溶けた氷と交わり、その色を薄める。
「シンジ君とはまだ会わないのか?」
コウゾウの問いにゲンドウは答えない。
ゲンドウは人類補完計画の全てを公にした後、拘束されたゼーレのメンバーと共に国際司法裁判所の
被告席に自ら立ち、全ての罪を償うことを表明した。
全てを語ったゲンドウはNerv職員が提出した減刑嘆願書の甲斐もあり、懲役20年、執行猶予10年という
異例ともいえる軽い判決で済み、国連の管理下の元でひっそりと暮らすこととなった。
それから程なく、どういう経緯があったのかは知らないが、ゲンドウの管理をNervが担当することに
なったことで、かなり自由に行動できるようになった。
バーで一人酒を飲めるようになったのも、その頃からである。
使徒との戦いの矢面に立たされたゲンドウの息子、碇シンジは、他のNerv職員や戦友である惣流アスカ
、
綾波レイと共にNervに残り、学業の傍らエヴァを操り、文字どおり復興の先頭に立っている。
シンジは上司でもあり保護者でもある葛城ミサトとアスカと共に、騒がしくも平穏な生活を送っている。
コウゾウはシンジと面会するように度々ゲンドウを諭していたが、ゲンドウは首を縦には振らない。
人類補完計画やゼーレの呪縛から解放された今、普通の父と子になることも不可能ではない。
だが、月日が流れても親子の溝は埋まることはない。
「シンジ君が今度、結婚するそうだ。」
グラスを揺すっていたゲンドウの手がその動きを止める。
「お相手は例の彼女だ。式の準備や新居選びも順調だ。」
「・・・そうか・・・。」
ゲンドウは表情を変えずに呟く。だが、その瞳は穏やかだ。
かつて数年ぶりに再会した息子を見下ろし、戦いか逃亡かの二者択一を迫った時の冷徹なそれの面影はな
い。
「もうそろそろ、父と子に戻ってはどうかね?」
「・・・出来ないな・・・。」
ゲンドウは残りのブランデーを氷水ごと一気に飲み干す。
コウゾウはウイスキーを少し多めに喉へ流し込む。
「負い目があるのか?」
「いや・・・。」
「なら何故だ?」
「今更・・・父と子に戻ることなど出来ん・・・。それだけだ・・・。」
ゲンドウは視線をテーブルに固定したまま呟くように言う。
あの頃と変わらぬサングラスの奥に、自虐の色が浮かんでいる。
「碇。親子は時が経っても、場所を隔てても親子には変わりない。」
コウゾウがゲンドウの様子を窺いながら言う。
「だから・・・親子に戻ることは不可能ではない。」
「・・・シンジは私を憎んでいる。親子に戻ることを拒んでいる。」
ゲンドウは空になったグラスをマスターに差し出す。
マスターは何も言わずに、グラスに新しい氷を入れ、茶色の液体を注ぐ。
「そうだ。シンジ君はお前を憎んでいる。」
コウゾウの一言がゲンドウの心を深々とえぐる。
死刑宣告にも等しい重苦しい響きが、ゲンドウの心を激しく揺さぶる。
「だが、同時にシンジ君は君を求めている。」
「・・・どういう事だ?」
「シンジ君も苦しんでいるんだ。憎む気持ちと求める気持ちとの狭間でな。」
コウゾウは最後の一口を静かに喉へ送り込む。
ゲンドウは差し出されたグラスを手に取ることなく、視線をテーブルに固定したまま黙り込む。
「これからどうするべきかは、自分で考えることだ。」
コウゾウは席を立つ。
「行くのか?」
「ああ。今日は人を待たせているのでな。」
カランカラン。
ベルがコウゾウの退出を知らせる音色をゲンドウに届ける。
再び一人になったゲンドウはグラスを静かに傾ける。
上品なBGMに混じって背後の客席から聞こえる他の客の賑やかな語らい。
それがゲンドウに一層の孤独感を感じさせる。
ゼーレのシナリオという名の思い上がりを忠実に演じてきたゲンドウ。
世間の非難を浴び、日陰の身になった今、ゲンドウは自分の心の後遺症を思い知らされる。
エヴァに、レイに、そして何よりシンジに求めたユイも、結局何一つ手に入れられなかった無力感が、
ゲンドウを容赦なく啄ばむ。
何も得られず、全てを失ったという実感が、ゲンドウに重く圧し掛かる。
カランカラン。
新たな来客がベルの音色によって告げられる。
コウゾウが去った今、ゲンドウは新たな来客を見ようともせず、ゆっくりしたペースでグラスを傾ける。
その客はホステス達の視線を集めつつ、カウンターへと向かう。
つまみには手を付けることなく、ひたすらグラスを傾けるゲンドウの横に、その客は座る。
物好きな奴だ、とゲンドウは思う。
ホステス達に取り囲まれたいなら、カウンターは場違いだ。
何より、一人で酒を飲むしがない中年男と並んで腰掛ける必要などありはしない。
もしかしたら、この客も静かに酒を飲みたいのか、とゲンドウは考える。
ただこの店の雰囲気を味わいたいのなら、ホステス達の歓声は喧騒でしかない。
自分の居場所がある故の孤独の味わいを楽しみに来たのかもしれない。
ゲンドウはしかし、客の方に視線を向けることはなく、ただ、黙ってグラスを傾ける。
「ソルティードッグを。」
客が注文する。聞き覚えのある声、いや、忘れるはずのない声。
ゲンドウはもしや、と思いつつ、視線をゆっくりと声の方へと向ける。
隣には・・・シンジが座っていた。
ライトグレーのスーツにネクタイに身を固めている。背が随分伸びたようだ。
その端整な顔立ちはユイを彷彿とさせる。いや、生き写しというべきか。
シンジはシェイカーを振るマスターを眺めている。
その瞳は愛されることを求め、傷付くことを恐れて弱々しく脈動する光を湛えたかつてのそれではない。
澄み切った黒い宝石の輝きは、確かな自分と護るべき者を掴んだ青年の逞しさを感じさせる。
ゲンドウはある種の感動と同時に、今の自分があまりにも貧相に思える。
シンジが何をしに来たのか不安さえ感じる。
「父親」だった男の無様ななれの果てを嘲笑いに来たのだろうか。
ゲンドウは再び視線をテーブルに落とす。いや、シンジから目を背けたと言った方が良い。
かつてシンジがゲンドウをまともに見ようとしなかったように。
「・・・何故ここに・・・。」
ゲンドウは掠れた声で呟く。視線はテーブルに打ち付けたままだ。
シンジはゲンドウの方を向く。
「冬月司令に呼ばれたんだ。ここに・・・父さんが居るからって。」
冬月め、とゲンドウは内心舌打ちする。同時にコウゾウに恨み節をぶつける。
かつてシンジを疎み、翻弄し、そして何もかも失った「父親」だった男を晒し者にしようという気なのか。
あまりにも酷いコウゾウの仕打ちに、ゲンドウはロンギヌスの槍で心臓を抉られたような錯覚すら覚える
。
「今度・・・結婚するんだ。」
「・・・アスカとだろう?」
「うん。二人でやっていける目処も付いたしね。」
何年ぶりかの対話。いや、もしかしたらまともに言葉を交わすのは初めてかもしれない。
言葉のやり取りのない関係は、必然的に疎遠となり、やがて断絶へと向かう。
だからこそ、この二人の間に深い溝が生じたのだ。父は子を疎み、子は親を恐れたのだ。
「何歳になった?」
「20だよ。」
「・・・そうか。」
一本だけ辛うじて繋がりを保っていた親子という絆を、二人はぎこちない会話で紡ぎ直していく。
分かりきったことでも良い。ありきたりのことでも良い。他愛もないことでも良い。
今の必要なのは、ただ、言葉を交わすことだけということは、二人には嫌というほど分かっている。
だが、言葉を交わした記憶を捜す方が難しい二人の距離は、容易には縮まらない。
焦らず、少しずつ、お互いを気遣いながら近付いていくことが、最善の方法だ。
「今、どうしてる?」
「大学へ行きながら、エヴァで復興作業の仕事をやってるよ。」
「ちゃんと暮らしているんだな?」
「うん。」
「・・・私のことは、聞かないのか?」
「・・・いいの?」
「・・・今更・・・隠すことなどない・・・。」
「・・・今、どうしてるの?」
「私と同じ質問だな。」
「答えてよ。」
「・・・聞いてどうする?」
「・・・隠すことなんてないんだろ?」
「・・・何もしていない。ただ生かされているだけだ。監視付きでな・・・。」
ゲンドウの言葉に自虐が篭る。かつてのシンジと同じ様に。
「シンジ・・・。今の私がおかしいか?」
「え?」
「おかしいだろう。さぞかし無様だろう。かつてお前を駒として弄んだ私は、今や何もかも失った。」
「・・・。」
「笑えシンジ。私を笑え。僕を大事にしなかった報いだと。大勢の人を巻き込んで当然だと。」
「・・・父さん。」
「父さん・・・だと?エヴァに乗せるためだけにお前を呼び付け、死と隣り合わせの世界に放り込んだこの
私を、
お前はまだ父などと呼んで求める気か?お前は憎い筈だ。私が憎くない筈はない。」
「・・・そうだよ。僕は父さんが憎いよ。」
「そうだろう。憎め。憎んで憎んで憎み倒せ。今の私には憎しみの洗礼こそお似合いだ。」
「・・・でも、憎んだって・・・何も良くはならないんだ・・・。」
徹底的に自分を嬲っていたゲンドウは、シンジの方を向く。
シンジの瞳には憎しみも恐れもない。ただ、老いた父親を見詰める優しい眼差しがあるだけだ。
「アスカも僕を憎んだよ。エースパイロットの座を奪ってプライドをずたずたにした僕を・・・。
僕もアスカを憎んだよ。他人を見下して思い通りにならないと罵るアスカを・・・。でも・・・分かった
んだ。
お互いに拠り所が欲しかったんだって・・・。憎んでも何も生まれないんだって・・・。」
「・・・。」
「怒って、泣いて、笑って・・・。それでいいんだ。ただ、もう、強がるのは止めようって・・・。
僕とアスカは・・・そう決めたんだ・・・。」
「・・・シンジ・・・。」
「その気持ちは・・・父さんに対しても同じだよ。だから、冬月司令に無理を言って、国連から父さんの
管理担当をNervに移してもらったんだ。少しでも父さんが暮らしやすくなるように・・・。」
「?!」
「だけど父さんがそんなんじゃ・・・僕も冬月司令も・・・悲しいだけだよ・・・。」
ゲンドウは冬月の言葉を思い出した。シンジは自分を憎むと同時に、自分を求めていると。
あの言葉は嘘や慰めではなかった。シンジは自分への憎しみやわだかまりを乗り越えていたのだ。
それに対して、自分は何と愚かで惨めなことか。ゲンドウは思う。
シンジは確かに成長した。自分を遥かに凌駕するほどに変わった。
自分は今の境遇を嘆くと同時に、それに甘んじているだけではないのか。
シンジにユイの面影が重なる。ユイが叱りつけているように思える。しっかりしなさい、と。
「・・・強く・・・なったな・・・。」
「父さん・・・。」
再びテーブルに視線を移したゲンドウを、シンジは見詰める。
サングラスの内側に柔らかい瞳が見える。口元に浮かぶ微かな笑みがシンジの心を満たしていく。
「シンジ・・・お前は本当にいいのか?」
「何が?」
「お前は、多くの人間を巻き添えにした極悪人の息子でいいのか?」
「僕には・・・たとえ誰が何と言おうと、父さんは碇ゲンドウしかいないんだ・・・。」
「そうか・・・。」
シンジは確かに見た。横から垣間見えるゲンドウの瞳に、微かに涙が浮かんでいるのを。初めて見る父
の涙。
改めてシンジはゲンドウを見る。かつてあれほど大きく、恐ろしく感じた父親の姿は影を潜め、
心も身体もすっかり追い越された老いた父親の姿が、妙に小さく見える。
「・・・式は何時だ?」
消え入るような声。だが、シンジにははっきり聞こえる。
「・・・今年のクリスマスの予定だよ。アスカの希望でね・・・。」
「・・・私も・・・行けるか?」
「もう、招待状は書いてあるよ。」
「・・・ありがとう、シンジ・・・。」
「・・・うん。」
「幸せに・・・なるんだぞ・・・。」
「・・・ありがとう、父さん・・・。」
長い空白だった。遠い距離だった。今、ようやく始まったばかりと言って良い親子の絆。
だけど、少しずつでもいいじゃないか。ゆっくりでもいいじゃないか。
憎しみと悲しみの闇に飛散しかけた親子の絆は、今確かに輝き始めたのだから。
長い夜の後には、必ず朝がやって来る。
一組の親子の絆は、今、夜明けの時を迎えた。
すっかり氷が溶けたゲンドウのグラスに、笑顔を浮かべる二人が映し出される・・・。
Moonstoneです。このSSはもともと、現在連載中のSS「Where
is my Daddy?」の後でエピソードの一つと して
発表する予定だったのですが、連載の更新が遅れ気味になっていて(すみません
m(_ _)m)当分日の目を
見れないのと、「オヤジの日」記念(^^;)にぴったりの(シンジを除く ^^;)顔触れということで、
急遽仕上げました。ですから、連載の背景を知る手がかり(大袈裟 ^^;)がかなり含まれています。
この話は私の経験を踏まえています。子どもの頃にはあれほど怖くて、「障害」だった父親が、独立した
今では
たまに顔を合わせる度に小さく、丸くなっていくような気がします。昔より言葉を交わすことも多くなっ
て、
妙に親しみやすくなった父親。これはそんな父親への形を変えた讃歌なのです。
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